2010/8/15 日曜日

坦々塾報告(第十八回)報告(二)

Filed under: 坦々塾 — toshiueh @ 10:43:08

 6月5日(土)第18回坦々塾において、すでにご案内の通り、私が「仲小路彰の世界」という題の下で、約一時間余の話をしました。「仲小路彰」は聞き慣れぬ名前と思う人が多いでしょう。

 国書刊行会から7月末に彼の『太平洋侵略史』全6巻 が復刻再刊されました。この本は仲小路が昭和16年5月から昭和18年9月までの間に集中的に書き上げた作品で、戦後GHQから没収発禁とされました。本年5月から7月初旬まで私はこの本の解説を書くため調査研究を進めていました。坦々塾での講演は中間報告といってよく、この後に仲小路について新たに分ったこともあり、以下の要約文は5月末の段階の私の認識を反映しています。

 浅野正美氏によってまとめられた要約文は以下の通りです。

太平洋侵略史〈1〉 太平洋侵略史〈1〉
(2010/08)
仲小路 彰

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西尾幹二先生 「仲小路 彰」

 仲小路彰(なかしょうじ あきら)とは一体何者か。伝記的事実がほとんどわかっていない謎の哲学者である。戦後も政府の要路の近くにいて、五校時代の同級生佐藤栄作とは生涯親交を結び、鋭い現実洞察に基づき折々に提言をしていた。生涯音楽を愛し、ピアノを弾き、三浦環や原智恵子、加藤登紀子らと交流し一千曲に及ぶ作曲と詞を書いた。

 今回復刻される仲小路の著作「欧米列強による太平洋侵略史 全六巻 国書刊行会」は西尾先生が解説を書かれる。そのパンフレットから先生の推薦の辞を一部引用する。

 『彼は決して偏狭な日本主義者ではなく、地球人類史の未来を見据えた総合人間学体系を目指し、戦後は、山中湖畔に隠棲しながら、終戦から佐藤内閣の頃まで、保守政権の政治外交に影響を与えた隠然たる存在であった。

 しかし表に立つことをせず、孤独を好み、その寓居に人が訪ねてくることを嫌う神秘的な哲学者で、限られた若者とのみ交流し、音楽を愛し、さながらスイスの山紫水明の地に仮寓したニーチェのようでさえあった。』

 仲小路は東条内閣では参与の地位にいた。生涯独身を通し膨大な著作と原稿を残した。今回復刻される「太平洋侵略史」は、17世紀からの太平洋侵略史の中の一部、幕末史である。幕末史とはいえ、安政の大獄の手前で終わり、維新から文明開化は出てこない。

 仲小路は歴史を語るとき単眼に陥ることなく、複数の断面図を用いたため視点が壮大であった。複眼を用いた。自分の言葉では話さず、当時のテキストを引用しそれに対する解釈や説明をしない。同時代の一次資料を原文で、しかも地理的に複数開示することで、歴史を立体的に展開し、テキストそのものに語らせることで、全体の判断は読者に任せるという姿勢を通した。現代の人間が現代人の主観(実はGHQ史観)で語ってしまう(実証主義の正体)愚を冒さない。これは歴史の当事者が、つまり歴史そのものが叫んでいるということである。

 講義の冒頭、仲小路が大東亜戦争敗戦の際に書いた文章、原文は口語体の難解なものを西尾先生が現代語文に直した文章が読み上げられたのでここに再録する。


「我らかく信ず」 仲小路 彰   昭和20年8月18日(執筆は15日か?) 

 大東亜戦争はいかにしても回避不可能な歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互に戦わせる何らかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需主義のメカニズムで、日本はその世界侵略に対するアジアの防衛と自存自衛のためにやむなく干戈を交えたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。

ついて大東亜戦争の第一次的目的、大東亜宣言で述べられた目的は、戦局の勝敗とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい。なぜなら、真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興防衛、世界の全植民地の開放にあった以上、これはついに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会談にいたる目的も、つまるところ大東亜戦争の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく日本の創造的なる行動は成功したといっていい。

欧州戦線も悲惨な運命を経過し、我が国には原子爆弾が投下され、(この時点で原爆投下を確言していることに注目)全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上再滅させるのはそもそも大東亜戦争の目的に沿わない。何としても本土戦場化を回避しなければいけない。さもなければ敵の悪魔的方法で大和民族の純粋性は壊滅させられる。国体を護持し、皇室に累をおよぼすことは絶対に避けなければならない。そのために和平工作が必要となるが、利益や対面に囚われず思い切って不利な条件をも甘受すべきである。

日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利にならない。今日の軍需産業は有力なる武器をもはや生み出せないので、全面的改廃はむしろ進める。大艦隊や歩兵主力の陸、海軍はすでに旧弊となり、次の大戦には不適切でありむしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃さえ恐れるに及ばない。ここからかえって新しい創造が生まれて来るのである。

そもそも今度の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件と見えても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに和平の条件がどんなに過酷なものでも、それはむしろ最良の道になると考えるべきである。

中略

大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は、今後の国民の積極的建設の有無によってのみ決せられる。(引用終わり)

 日本は幕末と、大東亜戦争と、そして現在と、三度続けてアメリカに敗れた。

 今回の講義は浩瀚な仲小路の著作から、西尾先生が重要と思われる部分を抜き出して朗読し解説を加える形で進められた。英露が日本を併合しようとした秘密文章では、英の冒険家トーマス・クックを使ってカムチャッカに上陸、露は船を出して英を助けるという作戦が練られていた。日本は非武装であるから占領は簡単である。この時露はシベリアにコサック兵1万4千人と多数の水兵を実際に移動していた。

 英ヒュートン号長崎侵入事件では、長崎奉行松平図書頭康平が責任をとって切腹したが、その後松平の霊は長崎諏訪神社に康平霊社として祀られたという。こうした現在の歴史書には語られていないことも書かれている。私も手元にある大佛次郎著「天皇の世紀」の第一巻を読んでみたが、康平の切腹の記述はあったもののその後については何も書いてなかった。

 このあと、ハリス、堀田正睦、水戸斉昭といった当時の表看板とでもいうべき人物が、幕末の日米交渉においてどのような発言をしていったかということが披露されたが、最終的に日本はアメリカに敗れる。我が国の第一の敗戦であった。我が国は一ヶ月近く返答を保留し、ハリスは堀田のことを信に置けない人と嘆かせた。彼の立場から見れば日本は不誠実であったが、日本人は正直で全部受け身で戦った。現在もそうであるように、これは我が国の宿命であろうか。条約の条文も米の素案が元となり、我が国は何一つ提出することができなかった。そこには宗教不可侵と治外法権も含まれていたが、特に後者の治外法権は我が国が日露戦争で勝利するまで解消することができなかった。

 この三者の中で異彩を放つのが水戸斉昭であった。徹底した攘夷論者である彼は、進退窮まった幕府に頼られて意見を求められた際の、いよいよ水戸藩に役割が回ったと得意満面、しかも嫌みたっぷりな文章が残されている。現実を見据えて開国になびく堀田に対して、斉昭は大いに反対し、100万両を出してくれれば、蒸気船を建造し、大砲を作り、自分が直接アメリカに乗り込んで交渉すると宣言する。西尾先生が孤軍奮闘する水戸老公を、現在のご自身の存在になぞらえたときには場内が爆笑に包まれた。

 ハリスは開国を促すにおいて、数々の甘言を弄した。日本がうるし工芸品を輸出すれば、暇に暮らす人が仕事に就くことができ、それによって幕府の収入も増える。中国と米の通商は74年にわたるが米人の居留はわずかに200人、何も怖いことはない。この件を聴いていて、現代もまったく変わっていないことに思いが至った。グローバリズムというのは、東西冷戦終結がもたらした結果だと思われているが、蒸気船の発明というテクノロジーがネットワークを短縮させることで地球を狭くし、すでに150年も前にグローバリズムを現出せしめていたのであった。現代がそうであるように、大国の横暴は弱小国の犠牲と悲哀の上に成り立ち、富はいつでも偏在した。世界史上ただ一人、我が国だけが欧米列強の野望の前に敢然と立ち塞がり独立の気概を示した。水戸斉昭の無念は、やがては国学の勃興となり我が国が戦争を戦う上での偉大な精神的バックボーンとなっていく。

 このあたりのことは坦々塾における西尾先生の一貫したテーマとして、毎回の講義の通奏低音として流れている。今回もまた例外ではなかったと思う。次回の「焚書図書開封」はこの国学がテーマになっているということで、出版される日が待ち遠しい。

 昭和42年は明治100年だった。当時小学2年生であった私にもこの時の記憶がかすかに残っている。同世代の知人何人かに尋ねると、懐かしそうに明治100年という言葉に記憶があると話してくれた。NHKが明治100年の特集番組を放映し、もちろん内容はすっかり忘れてしまったが、家族でその番組を見たことと、タイトルバックに映った明治100年という文字のことも記憶に残っている。まだ多くの明治人が存命で、子供心にも「偉大なる明治」というイメージは何一つ具体的な知識はなくとも備わっていた。多分この頃の日本人の共通認識ではなかったかと思う。あと15年で昭和100年を迎える。その時日本人はこの元号の時代を「偉大なる昭和」と呼ぶであろうか。

 今回の仲小路の復刻本を、多くの坦々塾塾生が注文した。歴史に埋もれる宿命にあった仲小路が、このような形で戦後65年を経て再び日の目を見ることができたことは大変喜ばしいことであると思う。

文:浅野正美

2010/8/11 水曜日

坦々塾報告(第十八回)報告(一)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 9:36:24

 6月5日(土)に第18回坦々塾が開かれました。報告が遅れましたことをお詫びします。

 この日は次のようなプログラムでした。

 浅野正美氏 諏訪大社の古代信仰
 西尾幹二  仲小路彰の世界
 若狭和明氏(外部講師) 日本人が歴史から学ぶべきこと

 坦々塾のメンバーのお一人である浅野氏のご講話の内容は、浅野氏ご自身が要約文にまとめましたので、以下に報告していただきます。

 長野県諏訪地方は本州のほぼ中央、太平洋からも日本海からも一番遠い山間の狭小な盆地である。諏訪大社には上社と下社があり、さらに上社は本宮・前宮、下社は春宮・秋宮が鎮座する二社四座という独自な構成になっている。上下とあるが二社四座に社格における序列、上下関係はない。現在諏訪神社は全国に5,000社以上あるといわれているが、四社すべてがその5総本山ということができる。現在一般的には、上社が男神、下社がその妃神、女神と伝えられているが、これは後年の創作と思われる。下社では毎年2月1日と8月の1日に、御神霊の遷座祭を執り行う。2月から7月までは里宮である春宮で五穀の豊穣を見守り、8月から1月までは山宮である秋宮にお帰りになる。
春宮が立地する場所は、下社の信仰圏である諏訪湖北部の沖積台地、いわゆる扇状地の最上部にあたり、その平野を作り出している砥川(とがわ)のほとり、ちょうど山と平地の境目に位置する。さらにこの川は霧ヶ峰高原の西端に源流を発し、そこには下社の奥宮が祭られていることから、下社は水と農業を主体とした祭祀と考えて間違いないと思う。

 上社には前宮と本宮があるが、この二社の性格は下社とは違って、半年ごとの遷座祭は行われない。大まかにいってしまうと前宮が土着諏訪信仰の聖地、本宮が大和朝廷によって秩序付けられた諏訪信仰と考えられている。今日お話しする内容は、この上社前宮のことが中心となる。
 
 古代信仰を研究する人の間で「諏訪がわかれば日本がわかる」ということがいわれている。これは古代諏訪がある種のアジール(守護聖地)として、中央の統制に組み込まれない独自の祭祀を維持していたのではないかと考えられているためで、それが解明されることで古代日本の正史には残らなかったある一つの姿を解明できると考えられているからである。閉じられた空間の中で独自に進化することを一般的にガラパゴス現象ということがあるが、古代から中世の諏訪がまさにそうした状態にあったのではないかと考えられている。一例を挙げると、諏訪には長い間仏教が入った形跡がなく、確認されている最古の仏教寺院は西暦1293年と極めて新しい。文書、考古学的発掘によっても、これをさかのぼる年代に仏教が普及していたことを示すものはまだ見つかっていない。7世紀以降、我が国は朝廷が中心となって熱狂的ともいえる情熱をもって仏教を受け容れて来たが、そうした時代にも諏訪は頑なに仏教を拒み、古代信仰と共に生きていたと考えられている。

 もう一つ不思議なことは、712年の古事記編纂から程ない721年、元正天皇の時代に諏訪は信濃から独立して一国の地位を与えられている。強大な信仰圏と、それがもたらす潤沢な経済的基盤があったために一国として充分成り立つと中央が認めたのではないかと考察する学者もいるが、10年後の731年、聖武天皇の時代に信濃に戻されている。

 諏訪を巡る動きを時系列に追ってみると、西暦685年、天武天皇は諏訪の近くに行宮を作らせている。天武天皇は翌年崩御されたので、実際に天皇が行幸されることはなかったと思うが、勅使の派遣はあったのではないか。691年、持統天皇は都で諏訪の神を10数度祀らせている。702年、文武天皇のもと吉蘇路(後の中山道木曽路・現国道19号線)が着工され、713年に開通。この開通によって都と諏訪の旅程が短くなった。そしてつかの間の諏訪の独立と再併合となる。朝廷にも強く諏訪を意識せざるを得ない何らかの要因があったとみてよい。8世紀半ばの国家プロジェクトというと国分寺の建立があげられる。741年3月、聖武天皇によって号令されたが、そのことと信濃への再併合は何か関係があるのではないか、という指摘もなされている。例えば、一国である以上その国には国分寺を建立する必要があったが、諏訪はそれを拒んで信濃に再編入される道を選んだか、諏訪という小国では国分寺の建立費用をまかなえなかったのではないか、ということが考えられる。

 いずれにせよ諏訪では650年以上にわたる仏教の空白期間があったといってよい。13世紀以降は諏訪も仏教を盛んに取り入れ、本地垂迹、神仏習合も抵抗なく受け容れていった。

 諏訪の名が中央の歴史に登場するのは古事記における「出雲の国譲り」の場面である。オオクニヌシの息子であるタケミナカタは、アマテラスの使いであるタケミカズチ(鹿島神宮の御祭神)との戦に破れて諏訪まで逃げのびる。ここで国土の譲渡と今後諏訪から一切出ないことを条件に命を助けられる。

 1356年、室町初期に「諏訪大明神画詞」(以降画詞)が編纂された。諏訪の風土記のようなもので、小坂円忠という足利尊氏に右筆として仕えた武士が、古老からの聞き取りや言い伝え、古典に登場する諏訪信仰などを収集して、12巻の絵巻物としてまとめられた。原本は紛失しており、文章だけを写した写本が13種類残っている。各巻の外題には後光厳天皇から御宸筆をいただき、尊氏も奥書に署名をしたといわれる。原稿は円忠本人が書き、絵師は本願寺にも作品の残る大和絵の巨匠5人が描き、書も当代一流の能筆家が当たった。

 この画詞ではタケミナカタを迎え入れた諏訪の視点から、この時の様子を描写している。出雲族を迎え入れた諏訪には、洩矢の神という土着の豪族がいてミシャグチ様を信仰する強固な信仰圏を形成していた。洩矢の神とは神様ではなく、神様を祀る神官である。このミシャグチという言葉、いまではその意味も神を表す固有名詞なのか、信仰の形態を表す抽象概念なのかまったくわからなくなってしまった。ミシャグチを祀る神社は諏訪だけでなく、丹念に調査した人の資料によると、長野675、静岡233、愛知229、山梨160、三重140、岐阜16、に分布するという。ある郷土史家は、明治の神道統合の際にいわれのはっきりしない神様の多くが、淫祠、邪神として排除され、整理統合されていく中で、ミシャグチ様もその一つとして扱われたのではないかと推理している。多くの祠は別の神様をお祀りし直したり、取り壊されたり、あるいは統合される中で、いわれはわからないながら、何となく昔から共同体の中で大切にされてきた、というただそのことだけで、現在まで少なからぬミシャグチ様をお祀りした祠が残ったのではないかというのである。

 現在のミシャグチ様に対する共通理解は、地母神ではないかといわれている。動物、植物、さらには人間をも無限に生み出してくれる地の母の神。それがミシャグチではないか。縄文時代の土偶には、妊婦を連想させる姿のものが諏訪からも多く発掘されているが、こうした受胎崇拝のような感情が基層にあると考えられる。

 画詞によると出雲における国譲りの抗争が、諏訪の地においても立場を入れ替えて繰り返されている。洩矢の神にとって出雲族は侵略者になるため、進入を食い止めるために武力衝突があったが、ここでは諏訪が敗れる。「画詞」の描写では、洩矢の神を賊臣(ぞくしん)と書いているが、これはこの本の作者小坂円忠が将軍尊氏に直接仕えるほどの地位にあったため、大和朝廷の縁起書でもある「古事記」に、あるいは体制に敬意を表する必要から、敢えてこうした表現を用いたのではないかと私は考えている。諏訪はかつて鎌倉幕府に忠誠を誓っており、執権北条が足利、新田勢によって滅ぼされたときには運命を共にしている。このように鎌倉と深い関係にありながら諏訪出身の我が身を取り立ててくれた尊氏に対して、円忠は深い恩義を感じ、またその微妙な立場故のバランス感覚も必要とされていたのではないかと思う。

 戦いが終わった後、戦後の和平交渉が話し合われ、そこで今後諏訪の地をどのように統治していくかという話し合いが行われ、両者による妥協が成立する。タケミナカタは、自らが天孫族に助けられたように、諏訪の洩矢の神を滅ぼすことなく共存の道を選んだ。

 神権政治の時代にあっては、祭祀権を持つ者が同時に地勢権も握っていたが、タケミナカタはこれを譲り受けるかわりに、洩矢の神は祀られ崇められる存在である神(タケミナカタ)の末裔に神霊を付与する、いわゆるシャーマンとしての役割を手に入れる。このシャーマンのことを諏訪では神長官と呼ぶ。神長官と書くが、官は発音せず神長と発音する。

 そして洩矢の神の子孫である守矢家が代々その役割を受け継いできた。タケミナカタの末裔は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を継いで行くことになる。大祝というのは、一般的には神職(神主)の最高位を示すが、諏訪では神職ではなく現人神を意味し、極限的な王朝が確立していたといってよい。諏訪以外で大祝の制度があった神社には伊予の三島神社があり、ここでも江戸時代まで大祝は神として崇められていた。

 神職はどこまでも人間であるのに対して、大祝はある手続きを経ることによって神、あるいは神の依代になるということである。かつての諏訪にはもう一つの天皇制度(諏訪朝廷)が続いていたということもできる。天皇は皇位継承において大嘗祭を行なうことで践楚が完成するが、諏訪の大祝は神長官から神霊を付与されることによって始めて神格を得ることができ、祀られる存在、生き神となる。神降ろしの秘術は一子相伝による口伝、親から子への口伝えで伝えられたため、文字としては残されなかった。明治維新の廃仏毀釈と神道の統制によって、諏訪の神長官制度は廃絶しこうした神降ろしの秘術も維新と共に消滅した。前回の勉強会で西尾先生がお話しになったように、神話に基づいた絶対皇国史観によって新たに国を束ねていこうという明治政府にとって、わが国に正統ではない現人神が存在するということは絶対に許すことができなかったであろう。守矢家は今も存続し、かつて神長官屋敷のあった場所には今もミシャグチ様の総社が鎮座しています。

 宮中の大嘗祭に相当するミシャグチ降ろしの秘技は、大祝となる人物の22日間に渡る潔斎の後、前宮にある柊(ヒイラギ)に神霊が降臨し、その神霊が柊の根元にある巨石に滑り降りたところで、大祝となるべき人物がその石の上に立ち、神長官の祝詞によって神霊を乗り移されて正式に大祝が誕生するといった儀式を行っていたといわれている。

 ここで興味深いのは、タケミナカタは諏訪の神との戦いには勝ちますが、洩矢の神と妥協をすることによって、タケミナカタの子孫が正当なる大祝に即位するための神霊降ろしにおいて、古代諏訪信仰の神霊であるミシャグチ様を降ろされていた可能性があるということである。反対側の視点から見ると、洩矢の神は戦いには敗れたが、諏訪の信仰の正統性を維持することには成功したということがいえるのである。これは、戦には敗れても交渉には勝つという大変高度な外交交渉を展開したといえる。国土を失ったように見せかけながら、古くから崇めてきた諏訪の神であるミシャグチ様にはついては、ほとんど失うものがなかった。タケミナカタはオオクニヌシという我が国の名門中の名門の家系を継承し、諏訪の地においては大祝という祭祀王として代々君臨しますが、信仰の基層においては諏訪信仰のミシャグチ様をまとっている。このトリックのような構造を編み出して、諏訪の古代信仰はその後も継承されていくことになった。

 さて、古代諏訪信仰には重要な祭祀が二つあった。一つは御室神事(みむろしんじ)と呼ばれるもので、もう一つは大立座神事(おたてまししんじ)と呼ばれるものである。二つの祭祀は繋がった一つのお祭りと考えることもできる。御室神事は、旧暦12月22日、上社前宮境内に穴(この穴が御室)を掘り、そこに8歳の子供六人と大祝、神長官が籠もる。6人の意味は、3人がメインで残りの3人はサブであったという。

 この御室の中でどのような秘技が行われていたのか、一部は文章が残っているが、ほとんど何も解っていない。画詞には「神代童体故ある事なり」「其儀式恐れあるによりて是を委しくせず、冬は穴にすみける神代の昔は誠にかくこそありけめ」とあり、こうした言葉から、この子どもたちは最後には人柱となって神に献げられたのではないかと空想する人もいる。

 この御室にこもった6人の子供達は、神の依代として、大祝の分身として神長官から神霊降ろしを受けていた。何日にもわたる秘技を受けた後に神霊を降ろされた子どもたちは、ミシャグチ様の分身として地上に姿を現す。

 それが旧暦3月酉の日であった。上社前宮境内にある十間廊(じっけんろう)という吹きさらしの建物において大御座神事(おたてまししんじ)が執り行われた。御室に籠もった子供はこの時すでに神霊降ろしを受けて、大祝と同じ神霊を身にまとっている。現人神の分身といってよい。

 大御座神事は諏訪神社の数ある例祭でも(年間70を越えるお祭りがあった)最も大切な神事とされており、膨大な費用をかけて行われた。地元で調達できるものとしては、鹿の生肉、鹿肉のミンチと脳みその和え物、フナ、鹿の頭75頭、ウサギの串刺し。アワビなど海産物もたくさんあったが、塩付けにして何日もかけ運んだのであろう。

 画詞にはこのときの様子を「禽獣の高盛 魚類の調味美をつくす」と表現しているが、はっきりと狩猟文化の痕跡が伺える。

 仏教の影響で殺生が禁じられていた時代にも、諏訪神社が発行する鹿喰免(かじきめん)のお札をもっていれば肉食が許されていた。全国を回ってこのお札を売っており、このお札は諏訪神社の経済的基盤にもなっていたと思われる。
 
 生神となった8歳の子どもたちは、神使(おこう)と呼ばれました。神使は馬に乗ってそれぞれの分担する地区を回り、ミシャグチ様の神霊を大地に降り注ぎ、大地に活力を与え、五穀の豊穣を祈って回った。その時ならした鈴が「さなぎの鈴」で、この行事のことを「湛えの神事」とよんでいた。湛えにはさんずいの漢字が当てられているので、農地に豊富な水をもたらすための儀式であったのか、神の降臨を称えたのか、、あるいはその両方だったと思われる。

 神使の分担は、内県、小県(おあがた)、外県の三地区に分かれており、ここがかつての諏訪神社の勢力圏と一致するのではないかと思う。神使は、御室に籠もってから一年間、このたたえ神事をはじめとしていくつかの神事を務めなくてはならなかった。次の年の御室神事に新しい子供が任命されるとお役ご免となるが、この後この子供達は帰って来なかったともいわれている。これが人柱説の根拠となっている。

 大祝や神使のように、諏訪では人間に神霊を憑依(依り付かせる)させることで、信仰を成り立たせて来た。「我に別躰(てい)なし 祝を以て御躰(てい)となすべし。我を拝むと欲せば須く祝を見るべし。」これは諏訪明神が大祝の口を通して発したといわれている神勅だが、諏訪信仰の特質はまさにここにあるのではないかと思う。

 これは余談ながら、織田信長は既存宗教を弾圧したが、戦国時代の1582年武田勝頼を追って諏訪まで攻め込み、上社本宮の社殿も焼き討ちにしている。実際に火をつけたのは息子信忠だが、このときの様子を信長公記はこう記している。

 「3月3日中将信忠卿 上の諏訪に至って御馬を立てられ所々御放火 そもそも当社諏訪大明神は日本無双の霊験、殊勝七不思議の神秘の明神なり。神殿をはじめ奉り諸伽藍ことごとく一時の煙となされ 御威光是非なき題目なり。」

 信長が本能寺で亡くなるのは上社焼き討ちの三ヶ月後の6月2日であった。この時、明智光秀も諏訪に同行していた。

 諏訪信仰はタケミナカタの諏訪入りと戦国の混乱という二度の危機に見舞われたが、幸運なことにどちらにおいても信仰の基盤を失うことはなかった。そして、明治維新という我が国が近代国家として西欧と対峙せざるを得なくなったときに、この我が国でも特異な神長官と大祝によるミシャグチ信仰という形態は滅んだ。それは日本という国が、国際社会の荒波の中に否応なく叩き込まれ、小国といえどもこれに対して一歩も引かずに挑んで行くためにはやむを得ない面もあったのではないかと思われる。大東亜100年の戦いの中で、諏訪神社は、信濃の國一之官、官弊大社、日本第一軍神として崇められ、全国から大きな崇敬を受けた。これは古事記においてタケミナカタが最後まで天孫族に抵抗したレジスタンスとしての精神を高く評価されたためであると思う。

 現在では地元でもこうした故事を知る人も少なくなったが、御柱の熱狂を見てもわかるように、神社と氏子は変わらずに強い絆で結ばれている。諏訪の地は6市町村に人口20万人という小さな共同体であり、自らを自称するときに諏訪人というように、諏訪大社の氏子であることに大きな誇りを持っている。御柱における団結を見ると、諏訪という地域が強固な連帯意識で結ばれた祭祀共同体とでも言うべき文化圏を形成しているのではないかと思われるが、実は大変に地域エゴの強固な地域でもあり、先の平成の大合併においても諏訪の6市町村はどれ一つ合併することがなかった。「諏訪を一つに」というスローガンは数十年前から唱えられながら、現実可能性はまったくない。根底にはそれぞれの自治体の経済問題がある。八ヶ岳の裾野に広い農地をもつ町や村は住民も自治体も相対的に恵まれており、貧しい市との合併に難色を示している。これを湖周文化と山浦文化の軋轢と見る人もいる。ユーロ問題の地方版のようだが、ギリシャの悲劇やドイツの苦悩を見ると、理念や夢だけでは現実は運ばないということを強く感じている。

文:浅野正美

2010/7/8 木曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(六)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 9:23:54

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長 坦々塾会員

 異なる言説を容れることができない。「排他」は権威主義のもう一つの表情である。福田和也が昨年夏だったか『文藝春秋』に書いたいやらしい文章が忘れられない。福田は、近頃けしからん輩がけしからんことを皇室について語っている、どうも(私の不行届で)申し訳ありませんと謝っているような媚態丸出しの“手紙”を書いた。いったい、雑誌誌面を借りて誰の不始末をどなたに謝っているつもりなのだろう。覚えめでたきを得るというのはこのことで、よくあんな汚い文章が書けたものだという気がした。誰のお鬚の塵を払おうとしているのかしらないが、福田のサークルにはこういう仲間が多い。

 中には、自分と皇太子殿下とは同世代だから、という愚にもつかない理由で“加勢”している連中もある。

 福田和也は日本会議ではないでしょうが、長谷川三千子さんはどうですか、また小堀桂一郎さんはどうでしょう。君側に立って、一般席は黙っていなさい、とやっているようなところはないだろうか。いや、一般席は黙っていなさいという人たちの心情に知らず呼応しておられるだけかもしれない。私が読んだ限りでは、最近、皇室問題に触れてすっきりと言葉が明るく、是非をきれいにして、まったく異臭の感じられない真っ直ぐな意見を言った人は、加地伸行さんと谷沢永一さん、あと一握りの人しかいなかった。

 先生は「皇室」対する日本人の思いは近代合理主義とは相容れない“信仰”だといわれた。このことは誰かについて賛同していくようなものではないし、群れて意見を統一するようなものではないのである。硬直した皇室崇拝者は思うに、いつか先生の文章で登場した大工さんのような清潔さが欠けているように思えてならない。

 長谷川三千子さんはある会合で、競馬の天皇賞レースに初めてご臨席された天皇の話をされ、「優勝した馬と騎手が中央のお席の真ん前で礼をして、陛下がそれに応えられた。競馬場はかつてないほどの歓声に包まれた。これこそ、陛下と国民と魂が溶け合った瞬間でした」と語り聴衆も感銘していたことがあるが、私はあまり感銘しなかった。天皇陛下は天皇賞レースにお出ましにならないほうがよろしい、と私は思う。馬券が空中を舞うような場所にご臨席なさるような時代になっているのだなと乾いた気持ちになるし、スポーツでも何でも「君が代」をポップシンガーが小節を回して歌謡曲のように歌って誰もおかしいとは感じない時代が来たということだ。自分は変だなと常々思っているほうですが、誰も変だとは思っていないのかもしれません。

 一見すると「山田孝雄」と「平泉澄」、「日本会議派」と「西尾幹二」のように映りますが、後者の対比は思想的には成立せず、硬直した皇室崇拝者は山田孝雄に似ていないし、平泉澄のような高い歴史の俯瞰力はない。これでは戦えないという緊張感はない。非常に平成的であります。愛国者かえって国を危うくする例だと思いました。

 気付いている人が少ないのですが、西尾先生は一貫して「帝王の道」を語っているのに対して、その他の人は「臣道」を語っているのであります。良心的に言うとそうなるのです。齟齬が生ずるのは当たり前といえば、当たり前です。このことはひそかに一番重要な相違だと私は思ってきたのですが。

 以上、先生のご講義の記録からあれこれ沸き上がってきたものを書かせていただきました。ありがとうございました。

文責:伊藤 悠可

2010/7/5 月曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(五)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 15:29:06

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 国民上下はなべて維新後の忙殺の時間を生きていたとも思われ、狂人走れば不狂人も走るといった模様を想像します。国民国家の黎明とは言え、先生にいつか教わったように、明治前期はまだ日本人は「江戸時代」(の余韻)を生きていたのではないでしょうか。幕府のほかに皇室というものがあったんだ、というのが庶民の感覚ではないかと思います。そこへ、いきなり「神」が国から生活のレベルにまで降りてきた。

 副島伯が「愛国心を育むより自国を侮蔑に導く」といった深意はわかりませんが、その副作用というか逆作用はわかるような気がします。偉人伝を小学校から読ませよう、という運動も一概には否定しませんが、かの人が偉人かどうかはわからないではないか。坂本竜馬が偉いかどうか、誰が決めるのか。司馬遼太郎に感化されてどうだ偉いだろうと言うような大人が偉いわけがないではないか、とへそ曲がりの自分は言いたくなるのであります。

 よく引き合いに出される福沢諭吉にしてもそうである。それはお前の人物趣味だと言われれば仕方がないが、教えるということに対する過信がすぐれて保守の人にあるのではないか。私はこんなところに「硬直」の弊があると見ているのであります。偉いかどうかはジッと自分で見つめていくしかありません。今生きている人についてもそうであります。

 明治のはじめ頃は、混血でも何でもして西洋人を受容し、気に入られなければという「社会改良主義」という極端な思想が息づいたり、森有礼といったどこから見ても侮日派インテリ国際人が当路の位置に坐ったりしています。新旧混淆、清濁混淆、東西混淆のまさに狂人奔れば不狂人もまた奔るという呼吸の荒さを思います。

 大正の蠱惑的空気にも見舞われたあと、それの掃除もしなくてはならず、赤色と同時にダーウィニズムも静かに浸透しています。大衆思潮のレベルではもう十分、「神聖」一本槍というものは落剥していたので、白鳥庫吉、山田孝雄の出現というのは無理ならぬ成り行きだったように私には感じられます。平泉澄の本は読み込んだ時期がありました。中世に魂を置いてみなければ自らの姿が映せない、行動が取れない。古事記や日本書紀には「清明」はあるが、「忠魂」(君臣の足跡)は歴史のほうにあります。

 ギリシャ人は「血」の上では消滅し、祭祀は遠くに途絶えています。日本には人皇百二十五代天皇が現に居られ、祭祀は伊勢、宮中でかわりなく続いています。山田孝雄は民族の帰郷すべきところを求めた学者で、『国體の本義』は時の国家の要請に応じて書いた“道標”にすぎないと私は思っていました。あの人はたしか小学校しか出ていなかったと思います。こういう人は今は居りませんが、また次の山田孝雄は現われるのではないでしょうか。平泉澄が「それでは戦えない」と思ったとしたら、山田孝雄は「日本人が帰る故郷を示してやらなければ青年たちは死ねない」と考えたのではないでしょうか。これは自分の想像です。方向は違いますが、平泉澄と両輪のように思えます。

 民族と国家について心配しているなら自分が真剣に考えたところを率直に語らなくてはならない、といわれる西尾先生は「皇室のことは語ってはならない」という日本会議に連なる人々とご自身を対比されました。けれど、私は別の見方をしています。

 「硬直した皇室崇拝をいう保守」と「西尾先生」という対比は成り立たないように思いました。日本会議の人たちのいわゆる「天皇や皇室については語ってはならない」という態度はどこから出ているのか。意外と平俗な心のはたらきから来ているのではないかというのが私の推測です。硬直はしているが山田孝雄に似ていない。

 なぜか、この種の人たちは同じ態度になる。「皇室を語ることは憚られる」。かつて美濃部達吉が天皇機関説を唱えて学府を騒がしたとき沈黙を守った学者がたくさんいました。ほとんど黙して語らなかった上杉慎吉もその一人だと思われますが、「天皇は神聖にして侵すべからず」というあの一言を残しています。

 ただ上杉には自分はこれだという節度と自制が感じられる。黙して語らないのも一つの態度です。けれど、先生が指摘する日本会議派といわれる人たちのそれは、節度や爽やかさという感じがない。むしろ一種の臭気さえある。この臭気がどこから来るのかと考える。これではないかと思い当たるのは「君側の臣」の自尊心であります。

 「天皇」「皇室」については常に多弁でいる人たちである。そして統一見解のような空気を有している。けれど、いついかなるときも「君側」について物を言っているように聞こえる。「君側の臣」と「一般の日本人」とがある。一般の日本人には教えてやらねばならない。知らず知らずそのように振る舞っているのかもしれない。倨傲がわからないのかもしれない。

文責:伊藤 悠可

つづく

2010/7/2 金曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(四)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 8:59:12

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 天武天皇以降、対外緊張感は薄れこの列島には何と明治維新まで「国際社会」はなかったというお話に目が覚める。この視点を携えること極めて重要だとしみじみ思う。

 西洋との距離もはかりながらの「沈黙とためらい」の長い時代のなかで、例外的宰相は豊臣秀吉でしょうか。先生も『国民の歴史』で一項をさいておられたが、秀吉だけは他の絶対権力者と類を同じくしない。突き抜けた力の信奉者。けれど、キリシタンには迷いなくシャットアウトしてまったく迷悟の尾を引いていない。

 「国際社会」という頭痛を伴う感覚はもっていないが、「世界」は標的として持っていた人物として断然面白い。秀吉没後、清の乾隆帝は「秀吉が若し存命であったなら支那も取られていたことであろう」と『通鑑項目明紀』に親しく述懐したとされています。湿気がなく単純で力に対して明朗な信じ方をしている秀吉のスケールは群を抜いている。あらためて秀吉という存在に興味を抱きます。

 明治政府は「古代神話」に求めた。平泉澄は「中世」に求めた。

 講義の最後のこのお話こそ、聴講した人たちが一番深く考えさせられ、かつ一番自分の言葉にして語るとすれば、どこか理路が漠然としてしまいそうな重要な問題であると感じました。前もって認識をただせば、「皇室を語ることは憚られる」という日本会議派は、山田孝雄の古代神話への信奉者に似ているが、実は非なるものであって西尾先生と対比することはまちがいという気がしてくる。私には平泉澄の冷静な時代認識と、山田孝雄の存在論的な帰郷意識とは両方に魅力が感じられます。順を追って書いてみます。

 明治天皇は自らを「人格」ではなく「神格」として振る舞われていたところがあります。ある事を片付ける必要があって、侍従が「このことは皇后陛下にご相談にならなくてもよろしいか?」と問うたところ、明治天皇は「皇后は神ではない」(別に訊ねる必要はない)と答えたエピソードがあります。明治帝には「再びの開闢」や「神武東征」ほどの意識があったのかもしれません。

 明治四年に官幣大社・国幣大社といった社格制度を用いて、律令下の延喜式を呼び戻しています。それに先立ち神仏分離、廃仏毀釈の号令がかかっていましたから、いわゆる過激でヒステリックな破壊活動と無茶苦茶な合祀が全国に広がります。(やがて南方熊楠・柳田国男たちが憂慮し抗議運動を起こしています)

 明治期にはこうした古代(神話)回帰が押し出されていましたが、頭を冷やせと風潮を戒める人も出てきました。副島種臣伯爵などもその一人です。

 明治のはじめには大教院というものを設置して、「古事記を以て国家の教典とする」という論が沸き上がりました。副島種臣はこれを許さず、この教育はオジャンになったことがあります。大教院の幹部は「国史の知識を普及することが愛国心を育む」という考えでしたが、副島種臣は「国史の知識を一般に広げるなどという魂胆は愛国心を起こさせるよりは自国を侮蔑に導く害のほうが大きい」と言っています。

 ちょうど、ギリシャ人がナポレオンに蹂躪されたヨーロッパの改造に、自国復興の義軍をつくろうとしたようなもので、「今の日本人に日本の古事記を読ませたなら、この世界改造の先頭に立ってどのような使命を有し、如何なる勤めをしなければならないかということに思い至るとでも考えているのだろうか。愚かなことだ」というようなことを言っています。このことは長井衍氏の回想で読みました。

 もっとも副島種臣は国史や古事記を軽んじていたわけではなく、「古事記や書紀を学校において修身的に利用して小さな愛国心でも起こそう」という浅はかさを批判したようです。徹底して記紀などの神典はただ帝室のためにあるもので、国民が座右にして感動させられるような書物として作られたものではないというわけです。

文責:伊藤 悠可

つづく

2010/6/28 月曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(三)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 20:59:06

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 講義で感じたこと気付かされたこと
 
 歴史家・歴史学者の多くはいつも列島内で重箱をつつくような詮索主義である。先生が講義で触れられたが「俯瞰の眼識」が欠けている。狭く近視眼的で細かい事蹟や国内のせめぎ合いなどの足跡だけは調べあげるが、時代の意志が見えてこない。生きた人間が出てこない。先生の『半鎖国状態で深呼吸している』という表現で、初めて臍落ちするようなことが歴史にはもっとあるはずです。

 それにしても、平安宮の元旦「朝儀」の荘厳な絵巻物のような光景がすばらしい。しかし「礼」がまつりごとそのものであると教えられれば、儀式の見方は一変する。限りなく格式は高く、規模は盛大でかつ雅びで、式次第は一寸の狂いもない厳粛等をもって「王」の極大の権威を内外にとどろかせる。その頃(特に遡って天武帝の頃など)心地のよい緊張感はこの列島にあったのだろう。現代はその意味でもっとも不幸な時代に相当するという気さえする。日本人は息の詰まる平成を生かされている。当時はさぞ初日の晴れやかな空気が列島に満ち満ちていたという感じがしてきます。

 歴史というものは「他」に対する「我」が深く考えられるようになってはじめて湧いてくる。編纂しようという意識がめばえる。朝儀に最澄や空海までも参列していることを想い合わせると圧巻であります。そこで思い出しますが、帰朝した空海がなぜ二年間も筑紫の地で足止めさせられたのか、最澄はさっさと上京が許されたが、なぜ空海は警戒されたのだろうか、と考えたことがありました。

 推古朝あたりから、朝鮮との軍事的交渉がおもくるしいものになっている。この朝儀の頃(もう少し前の時代でしょうか)、唐が侵攻してくるという切迫感は相当なもので、九州、四国、近畿まで要塞が築かれていたことでわかります。最澄は官製的秀才だが空海は異端的鬼才で、唐から何を持ち込んでくるかわからない。

 得たいが知れないという評価があって信任されなかったのではないか。最澄は秀才だったが警戒される人ではなかった。空海は密教の奥義を授けられ帰朝したが、反面怪しい。国を根本から揺さぶる「宗教」の怖さは骨身に滲みている。その後の空海の超人的伝説的な活躍は知られている通りですが、いずれにしろ対外緊張度の高さという点からこの話を思い出します。

 “赤ちゃんの即位”のところでは自問自答させられます。無理やりにでも必死に、どんなことをしても皇統護持をなさしめる。このことを考えると、『保守の怒り』で主張された平田文昭さんの持論「統帥権をもつ国家元首」としての天皇。それは排除される。平田さんは明治大帝をイメージされているかもしれない。二百年、三百年後、さらに五百年後を思ったとき困難である。方今直下の危機はそんな間延びした話ではないと言われるだろう。が、先生の言われた「京都へのお帰り」が正しい道筋ではないだろうか、と思ったりする。

 王がなくなると民族はなくなる――日本国民の所業を見ていると、日本民族など真っ先に地上から消え失せてしまう。“赤ちゃんの即位”ほどのぎりぎりの切迫感をどれだけの今の日本人が感じられるだろう。

 「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」など、いずれも皇位を脅かし皇位を奪ってしまうというところまでいった危機である。だが、現代のような「皇室そのもの」を無くしてしまえ、というような強制的水平化の空気はなかった。今なおかまびすしい“女帝”容認論議を押し進める保守の人たちがいる。風潮に乗じて道鏡的なものが生まれるスキはないのか、その油断はないのか、物言う人はもっとまじめに考えてもらいたいと思うことがある。

文責:伊藤 悠可

つづく

2010/6/22 火曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(二)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 9:14:35

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

6.義満の強大無比
  こうした皇位継承の型が続けば、おのずと天皇は「象徴天皇」に向かう。「摂政」が不可欠になる。室町・足利義満は存在自体が皇位をおびやかすまで権力が強大だった。病死しなければ彼に天皇の位は奪われていた。諡号まで用意されていたのだから。「偶然」がはたらいて皇位が守られた例である。

 [閑話休題]皇室の危機について思い返す。誰もが知っている皇室の危機、皇位継承の危機を招いた主役は「道鏡」「将門」「尊氏」「義満」であるが、坦々塾の畏友・平田文昭さんなどはたしか新井白石の『余論』を引いて、足利尊氏を古い固定観念で逆賊と決めつけることを排している(『保守の怒り』)。楠公は四百年悪逆の徒の烙印を押されてきた。楠公を忠臣とするのは光國などの顯彰の影響も大きいが、主として昭和初期の急進的国家神道イデオロギーの産物とみる人も出てきた。私にとっては新しい人々である。高山樗牛は菅公をボロくそに言っている。保守や日本主義もこうしてみると、やはり常に揺れ動いているとみるべきか。

7.王がいなくなると民族がなくなる
  満洲、そしてモンゴルの興亡をみる。「王と民族」の消失劇である。オイラードのように男系でない民族は王が続かない。王がなくなると民族がなくなる。前出の赤ちゃんの即位の意味の重さをあらためて思う。

8.もう一つの「ためらい」
  明治、大正、昭和に出てきたもう一つの「ためらい」。明治政府は皇室皇統の原点を「古代神話」に求めた。それに対する「ためらい」はその以前から、水戸学からも発せられていた。神代と人代とは明確に分けるという考えで、さかのぼると山崎闇斎や新井白石の立場も同じである。明治の硬直した古代神話重視が、津田左右吉や西村真次ら解明主義者の台頭を招いたとも言える。萩野貞樹先生から言わせると幼稚な科学主義者の主張にすぎない。しかし、次項に挙げた理由からも神勅派へのためらいは道理でもあった。解明主義派、神勅派、そして神勅ためらい派ともいうべき人たちが現われる。解明主義派の勃興に対する昭和初期からの「国体論」(白鳥庫吉、山田孝雄)については、「『国體の本義』の本質」を以前、先生の坦々塾講義で教わっている。

9.「それでは戦えない」という平泉澄の姿勢
  平泉澄は神官の家に育ちながら、古代神話信奉の道を歩かなかった。ヨーロッパをよく見てきた人で、彼我の中世に精神支柱を求めた。クローチェにも会っている。ホイジンガの「秋」(『中世の秋』)も読んだのだろう。したがって平泉は日本の歴史といえども国際社会の真っ只中に生きているという感覚を失っていないし、唯ひたすら神話を奉じるといった国体堅持派の主張では「わが国は戦えない」と考えた日本人の一人である。

10.現代の図式にあてはめると
  先生は山田孝雄、そして平泉澄を現代に照らしてみられた。皇室皇統にいくつもの問題が兆している。この日のお話の中にも皇統の曲がり角といえる歴史的局面は数多くあった。例えば保守統括を自認する日本会議は「ありがたや天皇崇拝」で固まり、また固めようとしている人があまりに多い。皇室に関することは基本的に発言してはならないという硬直した姿勢。これは何なのか。とりわけ図式化すれば「山田孝雄」と「平泉澄」は、今の「日本会議」と「西尾幹二」に対比することができるのではないかと、先生は相違を明らかにされた。
 

文責:伊藤 悠可

つづく

2010/6/18 金曜日

「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(一)

Filed under: ゲストエッセイ, 坦々塾 — toshiueh @ 11:24:15

sakokue.JPG
(当日の手書き資料、西尾メモ)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 3月6日(土)の坦々塾に出られなかった私に、西尾先生のご講義(音声記録)を聴く機会を与えてくださいました。「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」という題には大いに惹かれ、予告に「日本列島は半鎖国をしながら深呼吸をしてきた」とありましたから、『江戸のダイナミズム』に通じる先生の“眺め方”に興味は尽きません。期待どおりじっくりと先生の文明史的な日本観をうかがうことができました。

 以下は、私自身がご講義のここが急所だと感じて書き留めたメモと先生にご送付した自由感想文です。先生が語り、刺激されたら自分の考えを走り書きするといった断片で、起承転結は欠いています。

 現実に起こっている物事の底面にふれ、虚と実、本流と支流を教えて下さる先生の仕事にハッとさせられますが、それとは異なる仕事、目前の対象からすっと離れて眺めた後、文明や民族を思惟される世界に静かな興奮が沸いてきます。

 一時間二十分、漏らさず拝聴しました。日本民族は童心が過ぎるのでしょうか。それとも単細胞で運命の舟にまかせて、小さな田園と山村で四季を生きることが何より好きなのでしょうか。外界に接触し緊張するときは過呼吸に陥り、生命も簡単に捨てますが、本来は「できるなら放っておいてほしい」という内向きの世界遮断を感じます。「沈黙とためらい」を楽しく思考致しました。
 
 私が思った先生のご講義の急所

1.「礼」は政治そのもの
  新年の「恭賀の儀」というもの。それは単なる豪華絢爛なお祝いごとではなかった。国家意志の表現であった。「礼」は「政治」そのものであり「政治」が「礼」であった。こういう捉え方があるのかと驚く。内外の賓を迎え、文武百官、律令官人といった群臣が朝庭を埋めつくして色の波となる。唐における朝賀も荘厳だが、平安宮大内裏の元旦も引けをとらない。「礼の張り合いをしていた」という先生の説明がすっと入ってくる。

2.苦難を経たのちの頂上の安定期
  権力と権威を集中していたのは天武天皇。7世紀後期に「潜龍体元存雷応期の徳を以ち給ふ」と仰ぎ見られた帝。古事記を阿礼に口授した人皇天四十代天皇であり、四世紀以降の対外緊張と進出を経て、壬申の乱を戦い抜き、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を確立している。苦難を乗り越えて迎えた“頂上”の御代。先生の説明にあったように帝室のターニングポイントに当たる。「大王(おおきみ)は神にしませば」の歌は天武天皇を讃えたものとされる。偉大な天皇を仰いだ幸福な時代。

3.「国際社会」の喪失
  天武天皇以降、この対外緊張感は希薄になってくる。唐の崩壊は決定的で、大がかりな元旦儀礼は完全になくなる。ふつう、彼我の緊張がなくなれば周囲を気にせずに元旦から大宴会を開いて楽しむのでは、と考えるのはあさはかな現代人の頭か。やはり先生のいわれる「礼」は「政治」そのものということになる。国際社会に生きているという感覚の喪失がはじまる。

4.沈黙とためらい
  西洋が近づいてくるのが15世紀から16世紀。近づいてきたから開く、積極交渉に出るというものではないので先生のいう「沈黙とためらい」が続いていくことになる。対外関係・対外意識というものが、こちら側を変える。(こういう認識が今に至るまでわが国の歴史家には乏しい)。

5.皇位継承は苦肉の策の連続
  天皇はどうして続いてきたか。「偶然」と「必然」の両方を認めなければならない。万策尽きた後の一策。女性天皇もその一つである。その恃みとする最後の一策がまたつけ込まれる。例外的継承の失敗(道鏡事件)を学んで、「幼帝」という一策を立てる。柔軟構造にする。さらに(天皇が)世を乱すということがあっても出家すればセーフという収め方まで認める。泣き叫ぶ赤ちゃんにお菓子(干し柿など)を与えての「即位の礼」のお話を初めてうかがう。これほどの綱渡りなのか。とても意味深く興味深い。

文責:伊藤 悠可

つづく

2010/6/15 火曜日

第17回坦々塾勉強会講演要旨(五)

Filed under: 坦々塾 — toshiueh @ 9:16:51

平成22年3月6日(土) 第17回坦々塾勉強会 報告文

講師 西尾幹二先生
演題 「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」
浅野正美文責

 講義の冒頭、続漢書に描写されている九世紀唐の元会儀礼(新年元旦の宮中儀礼)の部分が西尾先生によって読み上げられた。続けて「日本古代朝政の研究」(井上亘著)から、我が国の同様の祭祀である、平安宮大内裏における元旦儀礼について書かれた部分が朗読された。当時の日本は中国に対抗して礼の競争をしていた。政治は形式化し、律令国家にあっては形式が政治そのものであった。礼は政治であるとともに戦いでもあり、諸国から使者を宴に招待する国家意思の表明であった。この時代の両国政治が、パノラマ化、劇場化していたことを表している。

 この時代の古代日本と東アジアを振り返ると、4世紀に朝鮮出兵しミナマに日本府が置かれる。百済と新羅を助けて高句麗と戦った。5世紀、倭の王が宋に使者を送り、世紀を通じてこれは10回におよぶ完全な朝貢国であった。6世紀589年、隋の統一がなり、7世紀大化の改新が成り、白村江の戦いでは唐・新羅連合軍に敗れ国内に大きな衝撃が走る。唐の攻撃を避けるために、都を近江に移すなど、国際社会との張り合いが必要な時代であった。

 天武天皇は中国皇帝にもっとも近い権力を掌握し、その存在は神そのものであった。壬申の乱を制して即位すると、中央豪族の政治干渉を廃し、大臣も置かず専制君主制を確立した。こうして唐に倣った立派な儀式を行う体制が整ったが、それは東アジアに我が国の国家意思を表明し、大国を標榜するためにも不可欠な行為であった。当時の日本は紛れもなく国際社会の一員であった。にもかかわらず、やがてこうした国家権力を目に見える形で表現する必要性を失っていく。

 894年、遣唐使を廃止、907年唐が崩壊する。これは東アジア社会にとって劇的な出来事であった。これ以降国家間の緊張を失い、大国たる威儀を誇る必要がなくなっていく。

 10世紀前半、我が国は事実上の半鎖国状態となり、王権は小さな世界に変化し、中国文明からも離脱する。これは中国文明からの離脱であり中国を中心とする東アジア世界を不要とする流れであった。これ以降、我が国は深く静かに国風文化を熟成させていくという見方もできるが、それは、この間の我が国が国家の体をなしていなかったということでもある。

 平安から明治維新にいたる10世紀前半から19世紀は、国際社会のない列島文化であった。日本の歴史、文化を考える上でこのことは非常に大きな意味を持っている。元寇、秀吉の朝鮮出兵も、国際社会がないゆえの事件ということもできるのではないか。国家間の緊張と軋轢のない、また必要としない時代であった。

 我が国の歴史において、平安末期から応仁の乱にいたる時間は、歴史のブラックホールであった。天皇家は武家と手をつなぎ、宗教的権威となっていった。

 我が国は大化の改新と明治維新において、外国から文明の原理を輸入した。古代中国と近代西洋はこの国を大きく揺さぶった。

 日本語には千年に近い沈黙の歴史があった。漢字が入ってきてから、それを受容するまで800年の時間を要している。これは我が国が無知蒙昧だったせいではない。新しく入ってくるものに対するためらいと、ひそかな抵抗がそうさせた。15世紀末から16世紀には西洋と触れ合うが、19世紀までためらい続け簡単には近づけなかった。長い沈黙とためらい、それが列島の文化であった。半鎖国状態のままに深呼吸している文明であった。二つの文化原理の輸入によって革命的な変動が起こったが、長い時間をかけて違うものに変えてしまった。

 こうした歴史を経験しながらも、天皇家という歴史の連続性だけはつながっている。なぜ天皇家は生き延びたのか。

 道鏡危機のとき女帝の危うさが刻印された。それ以降幼帝が即位するということが起きた。皇統断絶の危機に対しては、女帝よりも幼帝を立てた。幼帝が即位すると摂政の家柄が必要となり、後の藤原家の台頭を招く。幼帝が大嘗祭をお勤めになる際には、摂政が抱きかかえて殿中を回り、むずかるときには当時のお菓子であった干し柿をしゃぶらせたという記録がある。これはとりも直さず天皇が権力から離れて宗教的権威になっていったことをあらわしている。なぜ、そんなことが可能であったのか。

 武家と天皇家は持ちつ持たれつの関係にあった。この時代の権力構造を見ると天皇、武家、寺社、公家という四つの勢力があり、武家の権力だけでは国は治まらなかった。幼帝が成り立つということは権威と権力が分離していることを表す。国際社会の中で、東アジアの嵐の中で張り合っていた儀礼は国の威信をかけた戦争であった。唐が崩壊した10世紀以降、その必要がなくなった。幼帝の存在、権・権分離という二重構造が許されたのは、鎖国に関係があるのではないだろうか。

 西洋も大陸も戦乱につぐ戦乱の歴史であった。それは強力な国王が国家を統一し、強力な国王と国王が戦うものである。戦争に敗北するということは王権の消滅であるとともに、民族の消滅でもあった。仮に我が国がこうした国際社会の争いに巻き込まれていれば、幼帝を戴いて戦うことはできず、武家から王を出さざるを得なかっただろう。ところが我が国は鎖国状態にあったために、外国との戦争には巻き込まれなかった。国内では激しい内戦が続いたが、天皇家はそうした争いの外にあって、信仰と権威によって武家に対して官位を授けていた。武家はこの官位を後ろ盾に戦を戦った。天皇家に対する信仰、鎖国という必然があったために天皇家は残ったのであろう。

 また、足利義満による皇統簒奪の企みもあったが、彼が若くして病死するという偶然にも恵まれた。このように天皇家が残った所以には偶然と必然があったにせよ、この間わが国が半鎖国状態にあったということが何よりも幸いした。国際社会の軋轢に巻き込まれていれば、強い国王の下で外国の軍隊と戦わなければならなかったであろう。常に強い天皇が即位しているとは限らず、その場合武家の棟梁が王位について戦争をした可能性もある。 
 
 天壌無窮の神勅、天照大神から天孫降臨の御子孫としての天皇の御位を繋ぎたもうた、という日本人の神話への信仰へのためらいは、すでに大正、昭和の知識人も持っていた。戦後の歴史思想と同じ思想が、すでに戦前に出ていた。明治国家は支配の正統の根拠を、古代日本神話に置いた硬直史観で押し通した。戦前の日本は西洋思想との葛藤にあった。合理主義、開明主義、科学主義に基づく神話解釈はそうした明治国家の崩壊を意味する。神話に根拠をおいた歴史観に基づいて「国体の本義」は書かれたが、昭和になると国民が忠誠を尽くすに値する道徳観、倫理観を高める意識を強めない限り戦争は戦えないという考えの下、国体に関する激しい論争が沸き起こった。

 今日の講義は序論である。次回以降この国体論の出現を巡る論及を深めていきたい。

文責:浅野正美

2010/6/12 土曜日

第17回坦々塾勉強会講演要旨(四)

Filed under: 坦々塾 — toshiueh @ 11:43:58

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (2)粕谷哲夫

 60万人の日本将兵を不法に拘束しシベリアの移送し、捕虜として自由を奪い過酷な強制労働を課し、さらに参謀、憲兵、通訳などは国際ブルジョワジー援助の罪など戦時刑事犯人に仕立て20~25年の重刑を課し囚人とした、シベリア抑留という大罪は、スターリンないしはスターリニズムの責任である。これは議論の余地はない。

 事実、スターリンの死によって、遅ればせながら抑留者は日本に帰還している。また、スターリンはソ連共産党にとって正式に否定されたし、赤の広場から遺骸も撤去されている。ゴルバチョフは、シベリア抑留を遺憾とし、エリツインは謝罪している。さらにペレストロイカ以後の情報公開で、シベリア抑留の悪夢の内情が、ソ連側資料で、徐々に知られるようになってきた。いかに弁護しようともシベリア抑留にソ連にいささかの正当性はない。むしろこのことは、この事件に心得のある日本人より、ロシア人自身が認めているところである。

 問題は、このような残虐非道、暴虐のスターリンと共産主義を賛美、崇拝したインテリ階層がいかに多かったかである。同調、理解する幅広い支持者が、日本の知識社会を支配したということである。スターリンの大粛清は、細部はともかく、子供の私でもある程度匂いは嗅いでいたし、共産主義とスターリンに心酔してソ連に行っていた日本共産党員すらも多数、スターリンの毒牙の犠牲となった。そんな事実は 当時の共産党員なら誰でも知っていたはずである。

アンドレ・ジイド 『ソヴィエト紀行』から

 アンドレ・ジイドは、1936年にソ連訪問した。僚友ゴーリキイの病篤しという報に接して、モスクワにジイドが到着した翌日ゴーリキイの生涯は終った。ジイドは「赤い広場」での葬儀に出席する。その後、二ヶ月間、ソ連各地を訪問し、観察を記録したのが、『ソヴィエト紀行』である。

 ジイドが書いた、革命後のソ連の実情の描写は、国内外に異常な反響を呼んだ。当時世界の知識社会をほぼ席巻していた、革命礼讃の政治家、学者、文化人、ジャーナリストの、あるものを当惑させ、あるものを震撼させた。そしてあるものは激しいジイドに批判の矢を向けた。

 『ソヴィエト紀行』を読むと、ジイドは決してソ連で行われている諸悪や誤謬を暴露するために行ったのではない。ジイド自身、ロシア革命が人類のユートピアに至るファイナルアンサーであると心から信じており、その成功をこころから祈っていたのである。今流にいえば、共産主義革命にコミットしていたのである。

 ジイド自身の言葉をいくつか引用しよう。

ソ連は一つの「人類の模範」であり、「先導者」であり、われわれのユートピアが現実のものになりつつある国がであった。

 「われわれのユートピアが現実のものとなりつつある国」としてソ連に憧れていた。ジイドにとって、彼らの大きな成功は、われわれの心の中にさらに多くの要求を注いだのである。

 

すでに最も難事とされていたことが成就していた。そして我々は、すべての悩める民衆の名においてソビエットとともに契った誓約の真っただ中に隠然として突き進んでいったのである。

 アンドレ・ジイドはロシア的なものをこよなく愛し、ロシアの文士たちと友好を温め、ロシア革命に大きな夢を膨らませていた。ところが、実際にソビエットに来てみるとどうも様子が違う。その違う様子を少し長いが、そのまま引用する。

あふれるような人間愛、少なくとも正義を欲する烈しい欲求が、人々の心を満たしてくれればと、そのことを私たちはどんなに希ったであろう。が、一度革命が成就し、勝利を得、さらに革命の業が固定してから、そうしたものが問題にならなくなった。そうした革命の先駆者たちの心を動かしはげましていた感情は、次第に五月蠅くなり、厄介者となってしまった。あたかも最早役に立たなくなったもののように。

(中略)

今日ソビエットで要求されるものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義 (コンフォルミズム) である。そして人々に要求されているものは、ソビエットでなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。

また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。

私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。

 スターリンおよびスターリニズムの人権侵害、人民抑圧は、悪名高きヒットラーのそれをしのぐ!とすら言っているのである。当時とすれば驚くべき発言であると見なければなるまい。

 ジイドは、万が一にもその共産主義の理想が幻想に終わるとすれば、それにコミットした自分たちの責任はきわめて大きい。しかし、ロシア革命の希望まだ捨てない。

 ソ連の現実に完全に絶望して、フランスに帰国したのなら、ジイドはこの『ソビエット旅行記』など書くことなく沈黙を守ったであろうとすら言う。希望があるから、ソ連に誤謬を改めてほしいという、祈るような気持ちで期待をつないだのである。

 この辺の事情は、訳者の小松清の、ジイドは誠実な人で、黒いものを白いということは言えない誠実な人である。いまのスターリンの誤りは誤りとして、いずれ改善するだろう。自分もジイドのようにロシア革命の完全成功を祈っている・…というホンネを披歴している。

 ロシア革命の完全成功とそこからのユートピア実現を祈った、フランス文学者はじめ、われわれの青春時代の文学全集に名を連ねる学者や知識人に共通のものであろう。桑原武夫などその最たるものである。それは後述する。

 ジイドの観察した内容は、ソ連時代のロシアから北朝鮮他共産国に、そのまま残り続けた。ジイド批判を得意げに書いた、宮本百合子はそれのンの崩壊をどう弁明するのか? シベリア抑留も彼らの信じたものの、典型的な被害例である。

ジョージ・オーウエル 『動物農園』の序文

 スターリンとスターリニズムの内情に警告を発したもう一人のジョージ・オーウエルを見てこう。

 彼が 『動物農園』の序文で述べた文章は、ジイドから遅れること約十年、1945年ごろのイギリスの、知的空間を支配していた共産主義幻想を的確に描写したものである。そのようなものは早晩、消滅するであろうと、鋭いメスを入れて渓谷としている。オーウエルはジイドのように共産主義への期待も希望も抱くことはまったくない。

Orwell’s Preface to Animal Farm の要点

 1945年、無批判なソ連賛美は、イギリス国民の常識になっている。
 ほとんどの国民はこの「常識」に基づいて、行動している。
 ソ連邦批判の文章や、ソ連の嫌がる真実の暴露本は、印刷してもらえない。
 ソ連批判は許されないのに、英国を批判するのは当たり前のこととして、自由なのである。
 このソ連に対する寛大さは、決して圧力団体によって強制されたものでなく、イギリス人の内発的なものである。
 1941年以来、イギリスの知識人が、無批判にソ連の政治宣伝受け入れるという、卑屈な態度は驚くばかりでありだ。
 現在のイギリスのソ連崇拝熱は、西欧自由主義の伝統が全般的に衰弱したことの一つの現れである。
 ソ連への無批判の忠誠こそが正しく、ソ連の利益になる事なら検閲はおろか、故意の歴史の歪曲も大目に見るしまつである。
 このような態度は、ロシア礼讃以上に重大なことである。
 ロシア礼讃の流行は長くは続くまい。
 おそらく動物農園が出版される頃には、私の見方は、広く社会に認められるのではないか。
 400年間のわれわれの文明は、思想と言論の自由のない体制を認めない。われわれの文明はこの考えの上に築かれたものである。
 わたしは、ソ連の体制は基本的に「悪」であると、この10年間信じてきた。
 たとえ戦争でソ連が同盟国であっても、わたしのこの信念は変わらない。
 ミルトンかいみじくも言った「古くからの自由の よく知られた 習わしによって」のように。「古くからの」を強調するのは、知的自由が深く伝統に根ざすものであるからである。これが否定されれば、西欧文明は存在さえ危うい。
 イギリスには、あれだけ雄弁な平和主義・非戦論者がいながら、ソ連の軍国主義賛美に対して抗議の声は聞かれない。
 イギリスの戦争は大罪であるが、ソ連には自衛権があるからソ連の戦争は問題ないと考えているらしい。そのような考えは、イギリスよりソビエット社会主義共和国連邦のほうに愛国心を抱いている大多数の知識人、その彼らの臆病な欲望のもたらすものである。
 イギリスの知識人が、かくも臆病で不正実を自己正当化する理由は、(よく聞くので)私の口からも簡単に言える。だが、そういう口実を言うのなら、少なくともナチのファシズムに対して自由を護るというなどというナンセンスは止めようではないか。
 いやしくも自由というものに意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことをあえて相手に言う権利だからなのである。
 一般国民は、知識人とは違って、いまでも、漠然とではあるが、そのような考えで、行動しているのである。
 自由を恐れているのは自由主義者たちであり、知性にドロを塗りたがるのは、知識人自身である。というのがわが国の状況である。
 私がこの序文を書いたのは、このことをイギリス国民に注目してもらいたいからである。

 この文章の「1945年のイギリス」を「2010年の日本」に置き換え、「ソ連」の代わりに「◎◎」を入れ替えても、そのまま通用する。

 20世紀の歴史は、ジイドのソ連観察もオーウエルのソ連批判もまことに正しかったことを証明されている。この事実を受け入れたくない人は、想像よりはるかに多く、この歴史に目をつむって死んでいった著名人の1945年当時の考えで書かれた「名著」の多くは、現在でも聖書として、学界、思想界には脈々と生きている。共産主義の本山ではすでに廃棄されたカビだらけの思想も・・・・。

 ジイドもオーウエルの観察、警告はシベリア抑留と無関係ではない。それどころか、シベリア抑留の90%以上同じ文脈の中にある。

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