『正論』2月号(今店頭にあるもの)で私は再び皇室典範改正問題をとりあげた。朝日新聞に書いたものと同内容を3倍の字数に拡大し、少しゆったりと述べたのだが、今まで言わなかった次のような新しい観点をもとり入れた。
天皇制度はなぜ必要なのか。正面からそう問われて、確信をもって答えるにはどうしたらよいか、私はずっとそのことを考えて、いまだに適切な答え方を見出せないでいるのである。
天皇制度は絶対に必要であるという命題をあたかも自明のごとくに考える人にとっては、疑問そのものが成り立たないだろう。また必要ではないと頭からきめつけている人にとっても問いの起こる余地はない。しかし大半の日本人は、天皇制度はなぜ必要なのか、と問われて、何となく必要と思うものの、きちんと答えたことはない。大切なものだと思っているが、なぜ大切なのかと問われて、やはり答えることができない。
かく言う私自身がそうである。歴史を学んで天皇制度の絶妙さ、古代から現代まで権威と権力を二分してきた中国とも西洋とも異なる王権の独自性の価値を知り、それが失われた後の歴史の死を恐れてはいる。けれども歴史の死の姿はどうしても想像の域を越えない。日本人は誰も天皇のいない歴史を経験していない。未経験に属することはすべてこうなるであろうという推測であって、確実な知識たり得ない。
少くとも自由とか、平等とか、人権といった価値の尺度では測れないもの――それが天皇の制度である。国際化とかグロバリゼーションとか世界史的普遍性といった概念にどうしても一致しないもの――それが天皇の制度である。
私は『正論』2月号に次のように書いている。
天皇家のような神聖家族にあっては、婚姻で神聖でない血脈が入ることによる神聖性の稀薄化は神秘の消滅、権威の失墜、そして連続性の死を意味する。
私は平等とか人権とかいった近代の理念のまったく立ち入ることのできない界域が社会の中に存在することの必要について今語っているのである。個人がどんなに努力しても及ばない世界が存在することの意味について今考えている。人間は決して自由ではない。歴史は個人の自由を超えている。天皇にも自由意志はない。それを無言で教えているのが近代史の届かない所にある王朝の歴史である。歴史の短い民族には欲してもこれが得られない。日本民族には稀有な天与の宝が授けられているといっていい。
私たちの伝統は私たちが意識し得ないなにかである。天皇個人の努力や意図をもはるかに超えている。天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者であり、いわば神主の代表である。
平等とか人権といった近代の理念の立ち入ることのできない界域が社会の中に存在する「必要」と私は書いた。個人がどんなに努力しても及ばない世界が存在することの「意味」とも記している。けれども自由とか平等とか人権とかいった近代西洋の概念に日本人は一方では身をさらして生きている。だからここで「必要」とか「意味」といったものの、本当は私にはこれが分らないのである。
必要とか意味とか言っているのは、別のことばでいえば「信仰」ということだろうか。そう考えればよいのだろう。私はそういうつもりで「必要」とか「意味」ということばを用いていることに自ら気がついた。
そうはいっても、本心をいうと、ここでいう「必要」や「意味」を確信をもって、緻密に分析的に語る自信がいまだに私にはない。「あなたは信仰を持っているか」と問われて、けれんみなく、堂々と自己の信仰を披瀝できる人は幸わせである。信仰は懐疑を伴って初めて誠実になる。懐疑を深めることで、信仰も深まる。
そう考えれば、天皇の制度は日本人にとって道徳や歴史の起源であると明言するよりも前に、信仰の世界であるとためらいがちに言った方が正しいだろう。なぜ必要なのかと問われて答えられない。しかし必要なのである。なぜ大切なのかと問われるとやはり答えられない。しかし大切でないとは大概の日本人は思っていない。そう国民が無意識に考えているとしたら、これはなんといっても信仰の領域であろう。
日本人には信仰心がないとその昔、西洋旅行をした知識人はよく口にした。教会の暗い座席で西洋人が祈祷している姿を垣間見て、信仰心の篤い西洋を羨み、現世的な日本人を蔑むように語る日本人が多かった。私はそのとき正月に神社の社殿に向う日本人に宗教心がないなどとどうして言えるだろう、と訝しんだ。
皇室典範改定の議論が湧き起こって以来、人々の心に火が点いて、ゆっくり野火が燃え広がるように、ミニコミ紙やオピニオン誌から、テレビや新聞の討論を経て、国内を動かし、官邸を揺さぶる議論の大波がこの国を蔽い始めた。女性天皇と女系天皇は違うと、巷でひとびとは囁きだした。少しづつその規模は大きくなっている。
昨日私の家に来た大工さんが「先生、女系と女性はどう違うのか教えて下さい」というので、私は大きな女系の略系図を図解して説明し、即座にわかってもらった。「なるほど、系図をつくると皇室はどんどん遠くへ行っちまう。とんでもねえや。」
これはほかでもない、日本人の信仰の姿でなくて何であろう。天皇の問題はすぐれて日本人には宗教の問題なのである。中国も韓国もこれには干渉できない。靖国の問題に干渉しても、天皇の問題に外国人は手を触れることはできない。
天皇の制度はなせ必要か、なぜ大切かに関して大抵の日本人はうまく答えられなくていいのである。信仰や宗教の問題に簡単に、割り切った答を出せないのが当り前であるのと同様であると考えていいだろう。
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付記
これ(Age of infomationのブログ)は日比谷の集会に参加した人の報告です。
日比谷野外音楽堂での14日の催しにご参加くださり、寒い中で、雨にふられつつ写真までとってくださりありがとうございました。私は日録の「皇室問題の論じ方」(四)で述べたような、懐疑的な内容、天皇制度はなぜ必要で、なぜ大切なのか自分でもうまくいえないといった内容の話をしました。大工さんの例もだし、たぶんこれは信仰の問題なのだろう、ともいいました。もっとも地味な内容でした。おとりあげになっていた話題は私のではありません。
会場には1500人以上いました。デモが始まると街中からの途中参加者が増えました。約2000人が日比谷から銀座通りをデモ行進し、東京駅をこえて、私はズボンがひざから下すっかり濡れて、それでも最後までついていきました。5,6歳の幼い子もいました。皇室典範改悪ハンターイとシュプレヒコールにもずっと参加しました。デモは旗と傘と雨合羽の長蛇の列で、けっして小さなデモではありませんでした。空中写真があればいいな、とだれかいっていました。登壇者で最終地点までいったのは私だけだったらしく、マイクを持たされ挨拶しました。しかしすでに散会後で、半分の人は立ち去っていました。靴の中に水がはいっていました。
学生時代に絶対にデモに行かなかった私が、どいう風の吹き回しになっているのでしょう。
残念ながら、この日の行事もデモも産経にさえ報道されませんでした。チャンネル桜は放映するでしょう。